朝倉義景はどんな戦国武将だったのか?朝倉義景の生きざまとは?

朝倉義景はどんな戦国武将だったのか?

 

朝倉義景の生き様やエピソード、活躍などをイキイキと紹介していますので、朝倉義景の生涯を知るとより楽しい趣味になるでしょう。

 

朝倉義景

朝倉義景は、戦国時代でも屈指の越前強国を継いだが、ためらいと判断ミスで大国を滅亡させてしまった愚将。

 

上洛の絶好の機会を逃すし、文化面での功績はあるものの、美女におぼれて一族や重臣にも離反されてしまい朝倉家を一代で滅亡させてしまった武将。

 

生没年は、1533年から1573年で出身は越前。現在の福井県になります。

朝倉義景の生涯

朝倉義景は16歳という若さで当主の座に就いて、朝倉宗滴の助けを受けて勢力を広げることに成功します。

 

しかし23歳の時に朝倉宗滴が病死。

 

朝倉宗滴を失ってからも 朝倉家のために努力していた朝倉義景のところに1565年に大きな転機が訪れます。

 

13代将軍足利義輝の弟である足利義昭が、朝倉義景のことを頼ってくるのです。

 

朝倉義景は1566年に足利義昭の元服を取り仕切るなどしますが、初めこそ足利義昭を歓迎していましたが次第に迷惑に思うようになります。

 

越前では一揆が起こり、とても幕府を助ける余裕がなくなってきたからです。

 

また朝倉義景の妻と子供が病死したばかりで、とても将軍のことまで考える余裕がなかったのです。

 

しかしそうした義景の悩みを知らない足利義昭は、朝倉義景を見限って織田信長を頼ってしまうのです。

 

織田信長は将軍足利義昭をかついで、上洛を果たし朝倉義景に対して降伏するように言ってきます。

 

しかし義景はこれを拒否すると、織田信長は軍を差し向けてきます。

 

浅井長政の協力を得てなんとかこのピンチは凌げますが、姉川の合戦においては敗れてしまいます。

 

それでも朝倉義景は何度となく君を立て直して織田信長を苦しめます。

信長を討つチャンスを逃す

1572年に武田信玄が上洛をしようと動き始めると、織田信長は陣を捨てて美濃に逃げ帰っていきます。

 

この時に義景は織田信長を追えば討てるチャンスでしたが、大雪を理由に帰国してしまったのです。

 

この行動に武田信玄はとても大きなショックを受けたと言います。

 

みすみす織田信長を打てるチャンスを逃してしまった朝倉義景を待っていたのは朝倉家の滅亡でした。

 

織田信長の攻撃の前に家来たちは次々と裏返っていくことになり、最後は追い詰められて切腹してしまうのです 。

 

朝倉義景自身は、歴史的に見れば愚将との評価もありますが、それでも対面的な織田信長などの歴史を見た時に、やはり朝倉家の歴史は断然知りたいもになるはずです。

自分で調べてみる

一般的には朝倉義景は、女性に溺れて決断ができなくて滅亡したというイメージから愚将というレッテルが貼られています。

 

とは言え、本当にそうだったのか?と考えて、自分で調べてみると歴史は面白くなるものです。

 

勝てば官軍負ければ賊軍という言葉があるように、敗者ゆえのレッテルかも知れない。と思って、歴史小説を読んだり、ゆかりの地を巡ってみると面白さは100倍です。